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  • 執筆者の写真08th Ihara

導入:はじめに予約ありき/長い長い運試し概ね痛快エブリデイ



神社の周りを囲む石造りの低い柱に寄りかかりながら、柿原(兄)は麗らかな口調でこう言った。


「天使の羽根ってあれ鶏肉?」


安物のスーツに身を包み、はっきりとした滑舌でどうでもいいことを言い出す。

若いリーマンのような姿だが真面目や誠実といった印象は奴からは一切感じない。名を勇というが、つるみ始めた頃からただの一度も勇ましい姿は見たことがない。

頓狂な男である。

お調子者のおうむを彷彿とさせる。


間髪入れず、正面に立った柿原(妹)は、自身のスマートフォンに目を落としたまま適当に言った。


「いかにも」


悩ましい議題にも恐ろしく迅速なジャッジである。そして兄とは正反対に舌足らずな発音だった。

カルチャー系の少女のような姿だが、少女というには瑞々しさに欠ける。名を光というが、こちらも彼女の兄同様、名が体を表していたところはただの一度も目撃したことがない。

怠惰で飄々とした女だ。

年老いた猫のような女の子。


そして。


「や、要審議だと思うけど」


彼らとの間柄は友人、年齢も身長も滑舌も、柿原兄妹のちょうど真ん中くらいの僕である。

僕はエリマキトカゲに似ていると言われたことがあった。


季節は冬。年が開けてだいたい一ヶ月という冬。生地の厚さが貧相なコートの下で筋肉が寒さにこわばり、僕が小学校三年生の頃から引きずり続けている肩こりを悪化させる冬だった。

夜空には星が。その下の地上ではネオン管やらパチンコ屋のLED電球が負けじと点滅している。

その更に下の地面に直立して、僕と柿原兄妹は夕食の予約時間になるまで焼肉屋の軒先きで暇を潰していた。


現在より一時間ほど前である。僕と、柿原兄妹の三人は、小洒落たイタリアンレストランを後にした。

飛び込みで飲食ができる店だと思っていたら、その店に客として迎え入れてもらうには事前に予約が必要であったらしい。さらに生憎その店の予約が満席で、僕たちはまた別の店を探さねばならなかった。

ともかく、近場で三人が夕食にありつける店を探さなければならない。

事態は急を要した。本日が華の金曜日であったから。

もたもたしていると某ビジネス街から近いここ一体の飲食店のありとあらゆる席は、僕や光といった一般的な若者が勤労感謝すべき方々に、瞬く間に占領されてしまうだろう。時はまさにお食事処大争奪時刻。

普段ならオッケーグーグルと嫌がらせをするくらいにしか喋りかけないSiriに真面目にご要件を伝え、門前払いされたイタリアンレストランから一駅離れた土地の焼肉屋の空き席を探り当てた幸運に関しては、間違いなく努力を極限まで節約して成し得た結果だと言えよう。つまり運が良かった。


はじめに運ありき。


というわけで、店先の寒空の下、神社を背後に予約時間までだべっている。

「その羽根で頑張って羽ばたいている限り、ジュピターの血を引いた子であれ重力には逆らえないことが知れる」

天使がなんらかの女神の子だということを知っているだけ、このリーマン、ちょっと物知りなのではないかと僕は思う。

思うのだが、しかし彼の言っている天使というのはおそらくクピドのことで、クピドはジュピターではなくヴィーナスの子である。母ヴィーナスにしてクピド有りというのは個々人の好き嫌いはあるかもしれないが、西洋美術史の教授が言っていたから広く受け入れられている事実なのだろう。僕はそう思っている。

今こうやって柿原の少しいい加減な記憶力が僕にバレてしまったのも、僕が西洋美術史の講義で金星と天使についての項目をなんとなし耳に入れていたからにすぎない。柿原勇は少しばかり運が悪かったのだと僕は思う。これもまた運である。

対し妹は、天使が地球の引力に少なくとも従属していることに関しては異論は無いらしい。

理由としては「重力が無ければなんか天地の概念もなさそうだから」だそうだ。これは神ではなく仏の話だが、確かに涅槃を涅槃たらしめている印象の条件として面に寝そべっているという状態は欠かせない気がする。そしてあの寝そべるという究極のごゆるりとした姿勢は、無重力の内にとることはむずかしい気がするのだ。


はんぱない。

神仏をも従えてみせる万有引力。まさに万物に有効な引力。


妹はさらに続けた。

しかし羽ばたいて空を飛んでいるなら奴らの背中の翼は鶏のそれではないと続けた。天使の羽根鶏肉説否定派の意向を示したため、議論冒頭で彼女が迅速に下したジャッジ「いかにも」は、やはり脊髄反射で口から出た適当だということが知れる。

さらに彼女は、鶏肉でないならば食したところであまり美味しくない。もし仮に白鳥の翼を祖先にもつものだったとしても、直感的に渡り鳥である白鳥の末裔を手羽先にというのは気がひけるので、精々原型をとどめない程に細かく刻んで餃子のタネに混ぜるのが妥当では?という新たな可能性を提示し、唐突に議論のベクトルを幻想生物学から生活の知恵の方向にへし折ったその後も金輪際一切役に立ちそうもない議論はだらだらと続いた。


「じゃあ羽ばたいていなければ鶏肉ということか」

「断定はできませんがね。最後の審判の時に確かめるしかないですよ」

「いけるかなー天国」

「兄貴は根が中途半端に善人だから大気圏あたりでとどまりそう」

「まずいNASAに発見されてしまう」

「なんかNASAに後ろめたいことでもしたんすか」

天使の羽根鶏肉議論のほとぼりが冷め始めた頃である。

柿原勇がおもむろに喋り出した。

「そういやこの前」

僕の相槌より早く、光が相変わらずスマートフォンに目を落としたまま勇に相槌を返す。

「今日なんか珍しい月らしい」

相槌かと思ったが、相槌ではなかった。

「いや清々しい程のネグレクトじゃん」

流石俺の妹とため息混じりに言いつつ、勇が天を仰ぐ。彼のインテリ風な眼鏡がつるりと光って、空を仰ぎ見る動きに伴い唇がわずかに開いた。

つられて僕と光も天を仰ぐ。

正面を焼肉屋に、背後を神社に挟まれた僕らの位置から見上げる空は狭く、その珍しい月とやらは見えなかった。

その夜はスーパームーン現象とナントカムーン現象がちょうどバッティングしたウン年に一度の夜らしく、SNS上ではステレオタイプに美しい月の写真があふれんばかりに出回っていた。月の写真とハムの断面の写真は確かに似ていた。

しばらく三人で、星が申し訳程度に瞬く夜空を黙って見上げていたが、ほどなくして首が疲れてきた。

「結構疲れるね。やめよう」

勇の言葉を合図にしたわけではないが、三人ほぼ同時に頷くような仕草で視界を地上に戻す。

我慢や忍耐など似合わぬ三人だった。


風がびょうとふいて、焼肉屋の暖簾がはためく。店内から流れる肉を焼く匂いがいっそう強く香った気がした。

そして僕の肩が、ぬん。とダルくなる。

上を見上げるという緊張状態を保ったことと、さらに年明けの寒さで肩が輪をかけて痛んだ。肩を回して倦怠感を霧散させる試みをしていると、スマートフォンを眺めながら光がぼそりとつぶやいた。

「上を向いて歩くの相当難儀な芸当だな」

足元を見るような体制で、顔がブルーライトで青白く照らされている。

僕は元より上を向いて歩くのには向かない、後ろか下を見て歩くのが得意な人種である。高燃費は百も承知だ。柿原兄は前を向いて歩いているようで常に脇見運転で生きている。柿原妹は高速のカニ歩きで人を避けながら進む。

リーマンは自らを棚に上げつつ上を向いて歩くことへの懸念を述べる。

「事故は起きやすいだろうよ人も車も地上を歩いているし。歩きスマホと大差ないな」

「空見てて目に入る人型って天使かパラシュートで降りて来る人だけだし」

「いや待て天女とかサンタクロースとかイカロスかもしれんぞ。特にイカロスは落ちるだけだからこちらが避けなきゃこちらが死ぬかもしれない」

「いよいよ神仏習合の成れの果てってかんじでおぞましいし」

「そう聞くと上を向いて歩くメリットも見えてくる気がするし」

「しかしそれは上から物が落ちてくる前提の話ですし」

柿原二人と僕に関して言えば、上を向いて歩くことは危険だということだ。

かといってパリコレの如く前だけを見据えた歩き方をしているとも思い難かった。

「へんな歩き方してても生き残れるもんですね」

「それは藤吉君…あれだよ…ラッキーなだけだ」

俺と光は運と最低限の才能だけで生き残ってきたし。

と、柿原勇は到底自慢にならなさそうなことを言って、実の妹から膝の皿を五本の指でじわーっとやられる報いを受けた。情けない悲鳴と共に、その運と最低限の才能だけで生き残ってきた兄は危うく座っていた柱から落下しそうになる。

妹はその運と最低限の才能「だけ」というところに何か異議があるらしかった。


「私は脚力も腕力も兄貴よりずっと強い」

「それはお前が父さん似だからだろう」


妹も兄同様、努力を極限まで節約する玄人であった。

膝に溜まったもしょもしょが掃けたのか、体勢を立て直した柿原勇は、まー、と切り出す。

「本日は運の調子があんましでしたねー」

門前払いされたイタリアンレストランのことを言っているのだろう。

「そういえばさっき勇さん何言おうとしてたんです?」

僕は柿原勇より年下なので、大抵の場合どんなに砕けていても敬語を使う。

勇は「ああこの前仕事の電話待たされてる時にね…」と七三に分けた前髪を指でいじりながらこう言った。


「それとなく思い立って、徳川綱吉が犬に与えてた飯の量を人間大に換算してみたのよ」


僕も光も「仕事しろよ」とは言わなかった。言えるたちではないのだ。

勇はさらに続ける。


「したら俺より裕福な暮らししてたわあいつら」

「ちくしょぉお」

光は凹んだ。勇とだいたい同じ水準で生活しているからだろう。

「藤吉さんは自炊してるんですか?」

光も僕に敬語を使う。僕が少しばかり年上だからという理由だけだろう。

「料理というより作業に近いけどね。外食とか冷凍は高い」

「最近は何食食べてるんです?」

「二年近く豆腐と納豆と卵だなぁ」

「献血は?」

「毎回カレーが欲しくて行くけど相変わらず検査で跳ねられる」

「誰も元禄時代の犬に勝てないじゃないか」

元禄時代の犬より食うや食わずだったり中途半端に悪人であったり、ハッピー充足大満足とは言い切れないが、生き残るための程度のラッキーは持ち合わせている。

誰から生まれ誰と関わるのかも運。その結果どう性格が歪むのかも運。そして死後の地獄の沙汰も運次第、やはりはじめに運ありきなのだ。


こういう時は運命がいることにしておくと楽だと僕は思う。


そんなやりとりをしていると、あっという間に予約時間である。

神社の暗闇を背後に控えた場所から、炭火と蛍光灯が輝く暖かい場所に、羽虫のように寄っていくのだ。

焼肉屋の朱色の暖簾をくぐる前に、柿原(兄)は夜空を振り返って、麗らかな口調でこう言った。


「月がすごいですね!」


つられて夜空を見上げる。すごいどころか、どこにも月は見えなかった。

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