「どこかで見たんだけどさ」
乾杯の後、ごついタンブラーの中できらきら輝く液体を一口煽って光が言った。なぜか舌足らずが治っている。
未成年者飲酒禁止法に則ってジンジャエールを飲んでいる光だが、モヒートを煽る僕や真っ赤なチューハイをジョッキで煽る勇なんかよりおそらく余程無頼に見える。
この老いた猫のような少女に無頼を足すと姉御になるのだなぁとのんびり思った。
「酒が人を堕落させるんじゃなくて人が元々自堕落だってことを酒が教えてくれるだけだって」
「性悪説っスね?」
ジンジャエールのハードな喉越しで少ししゃがれた声も手伝って姉御感が増したため、僕は舎弟のような口調で相槌をうってしまった。
焼肉屋は決して広くはなかった。
僕と柿原が座る四人席の他に四人席がもう一つ、六人席が二つでここの焼肉屋はいっぱいになる。各席にひとつずつ七輪が置いてあって、七輪の真上に煙を吸う太いパイプが天井から口を開けていた。僕は二十年以上生きてこの様式の焼肉屋にお初にお目にかかる。イタリアンレストランの席が埋まっていたことは、ラッキーなのかもしれなかった。
「藤吉さん聞いてください」
光は自身の横に座った兄を親指で示しながら続ける。
「この男は藤吉さんの前ではインテリぶってる節がありますが、家で極限まで酔うと服を脱いだ挙句仕事でかかえている顧客に対する罵詈雑言を官能小説ばりの表現力で並べ立てるのですごく気味が悪い」
僕としては初耳であった。
チューハイを煽る勇の手が止まり深刻そうな表情で光の顔を覗き込む。妹は構わず続ける。
「度数の低い酒を選んだのは他所ではマナーモードを守り抜くためです絶対」
「だって公共の場では守らねばならぬものだってあるだろ」
「では聞くが己が妹に腕相撲で負ける兄に何が守れる」
「世間体と法律だよ!俺くらい貧弱だと守れるものは己が世間体と簡単な交通法くらいしかないの!」
「道理で」
「納得しないの藤吉君」
確かに柿原勇は交通法を徹底して守る。
ここに来るまでの道のりも、右側通行を促す発言をしたり「横断歩道以外で轢かれると面倒だからな」などと言ってはどんなに短い横断歩道も渡る。
勇の世間体が少し剥がれ落ちたタイミングで「カルビとハラミですねお待たせしましたー」という陽気な女将さんの声がすると同時に視界の上から肉の乗った皿が登場する。
兄への鬱憤を晴らすことに成功した妹は上機嫌で、癖を暴露されてしまった兄は釈然としない様子で肉を七輪の上に並べ始めた。
肉を焼く音を生で聞くのはいつぶりだろう。飲食店特有の黄色いライトに照らされた店内で、僕は静かに興奮していた。
七輪の上に肉が五、六枚乗ったあたりである。
「ちょっと待って」
今度は勇の方が何かに気づいてしまったかのように、再び妹の顔を覗き込んだ。眉根が寄っている。
「お前そんな小説読むの?」
「………」
網の上に肉をセットした光の動きは止まったものの彼女の能面は崩れない。とるべき表情が無いのかもしれない。
「誤字脱字の生き字引のお前が?」
着眼点はそこか。
しかしこれで形勢逆転、形勢逆転というより勝敗記録が五分五分になったというのが正しいのかもしれない。とにかく、今度は兄が妹を痛ぶりつける番らしかった。
「お前最近前より雅な言葉使うようになったなーと思ったら何、頑張って語彙を増やそうとしてるのか?そうなんだな!?俺もいつだかやったわー」
光の発言のどの辺が雅だったのだろう。僕には覚えがない。
会社で作り慣れているのだろう、スマートにつり上がった兄の口角から流れるように嘲笑が繰り出される。
「でも漢字検定七級を志半ばで諦めたお前には難しいと思う」
この兄妹、互いに名誉毀損めいている。
「お二人ともすごいですね。僕ならバックヤードが他人に知れたらひとたまりもない」
素直に尊敬に値する。
「でもやっぱ勇さんも光ちゃんも最後の審判でオゾン層にとどまると思います」